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01/20 : 自分の感受性くらい


日々のからだになじんだ、小さな習慣から発酵する想い。

ときに、どこかから借りてきた100の理論・正論を超えて、
我に向かい、人に向かう。
ささやかではあるけれど、暮らしに尊い、
自らの胸に湧きあがる想い。
たとえば、部屋の片隅を掃除するために置いた大安物の小箒。
毎日、気がついたときに、こそっとササっと。
気分転換を兼ねたひと手間作業。

ふと、自分がいま生きて在ることのありがたみ。
人様への感謝の気持ち。
大げさであることも、あからさまに声にすることはなくとも、
毎朝毎夜、思い出しては忘れぬように、と。

なぜに、小箒の掃除くらいでこの想いが?
自分に問うてみる。

腰を落とし、頭を下げ、静かに隅のチリゴミを集める。
元々、毎日、和箒をかけることは好きだが、
どうやら「腰を落とし、頭を下げ」という行為の繰り返しが、
日々の想いを連れて来たらしい。

他の眼からは泡沫事に過ぎないことを、こんな場で書くのは
気恥ずかしいけれど、自分にとってはひとつの祈りに
近いのかもしれない。

なによりも大切なのは、自らの小さなからだの慣わしから湧いた、
身の丈の体感や肉声であるということ。

もう10年余、押入れのブックストックとして眠っている
詩集を思い出す。

「自分の感受性くらい」(茨木のり子)

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

あまりにも著名な詩なのでご存知の方も多いはず。
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/shigekawa/ibaragi.html
(全詩記載は…なので、申し訳ないがずっこいリンク)

まず、今の自分を許す。そして、もっと頼ってやれ。
どこからか、そんな声も沸きいずる。

「『信頼』とは、子どもにだまされる覚悟でするもの。
さらにいえば『信頼』するということは、
ある意味でだまされることを覚悟することです」

アドラー博士の児童書の一節の言葉を自らに置き換えてみる。
日常からの等身大の想いは、吸い取り紙のように実感を
伴いもし、落ち着きも背中をも押してくれる。

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